人種の多様性は認めるのに、考え方の多様性を認めない人の心理。
どうも、ミゾピィです。
情報社会のおかげで世界がどんどん狭くなってきていますね。
日本にも多くの外国人観光客が訪れ、町で外国人を目にするなんてことも珍しくないです。
そのこともあり、小学校の道徳の授業で「人種や国籍で差別してはいけない。」ということを教わった人は多いんじゃないでしょうか?
ぼくもその一人です。
他にも英語の授業ではキング牧師が出てきたり、日本の教育は「人種や国籍による差別」をなくすことに積極的に働いています。
小さいころからそのように教えられてきた子供は、大きくなって人種差別をしたりすることは少ないです。
これは、小さいころからごみのポイ捨てはダメだと教えられた子供が、大きくなってポイ捨てをする確率が低くなるのと同じ現象ですね。
小さいころから当たり前だと教えられたことは、いい意味でも悪い意味でも大きくなっ手も身に沁みついています。
そういうことで、今や人種差別をする人も少なくなり、それが表面的だったとしても『人種や国籍の多様性を認めることができる』ようになっています。
しかし、『考え方や生き方の多様性を認めることができる』かはどうでしょう?
友人と考え方が違い、けんかになったことがある人も多いと思います。
また、俗にいうレールから外れた生き方をしている人が批判の対象になることも多いです。
これは、例えば堀江貴文さんやイケダハヤトさんが当てはまります。
あなたたちが進路を選ぶときに、口出ししてきた人がいませんでしたか?
これらは、『考え方や生き方の多様性を認めることができない』人たちが原因となっています。
そして、今の日本には『人種や国籍の多様性を認めることはできる』のに、『考え方や生き方の多様性を認めることができない』人が多いです。
Twitterが毎日誰かしらの批判で溢れているのもその証拠です。
このような人たちは、どのような心理であるのか。
ぼくなりに考えてみました。
まず、『人種や国籍の多様性を認める』ことは、他人を認めること、つまり自分のほかの部分を認めることです。
言い方は悪いかもしれませんが、自分のほかの部分は自分とは関係ないので容易に認めることができます。
次に、『考え方や生き方の多様性を認める』ことは、自分の考え方や生き方に影響を及ぼしかねないものを認めることになります。
極端な例を取ると、イスラム国が古代遺産を破壊しているのは、自分とは違う考え方や生き方を許すことができないからです。
つまり、『人種や国籍の多様性』よりも、『考え方や生き方の多様性』を認めることはむずかしいのです。
また、先に書いたように学校教育で『人種や国籍の違いで差別するのはよくない』とは教わりますが、『生き方や考え方の違いで差別するのはよくない』と教わることがないのも原因の一つだと思います。
これは、学校教育を批判しているのではありません。
単純に小さいころに、親や教師のいうことが唯一の意見だと思っていた子供に、いきなり考え方や生き方の多様性を認めろというのはむずかしいということです。
この問題の解決策は、やはり小学校などで人種差別がいけないと教えることと同じように、生き方や考え方で差別するのもよくないと教えていくことだと思います。
ですが、こう言い切ってしまうのも、また考え方の多様性を認めないという行為になってしまうので、やはりこれはむずかしい問題ですね・・・。
みなさんはどう思われますか?
この記事を読んでくれた方が、上記のことを考えるきっかけになればと思います。
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